キリストきょうだいだん
基督兄弟団 Brotherhood of Christ Church

「基督兄弟団」は教団名ですが、プロテスタントの福音派に属する教会によって成り立っています。「基督」は読みづらいこともあって、看板や案内などに、便宜上「キリスト兄弟団」と表記されることがあります。

信仰上の特色は、以下に『クリスチャン情報ブック』(クリスチャン新聞発行)に掲載のものと同じ文を記しておきます。

旧新約聖書を神のことばと信じ、使徒信条に準拠し、ウエスレアン・アルミニアンの立場に立ち、四重の福音、すなわち「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の信仰を堅持し、聖霊を崇め、祈祷を重んじる。特に、主の再臨、イスラエルの救い、祖国の救いのために祈り、祈祷と宣教に励んでいる。

さらに、詳細を知りたい方は、続いて以下の文章をお読みください。

信仰の特色

私たちの教団の信仰的立場は、次の4項目で示すことができます。

 《1》聖書信仰
 《2》ウェスレー・アルミニウス主義
 《3》四重の福音
 《4》祈祷と宣教

信仰の特色とは、教団の旗印であり、聖書が告げている福音に対して、教団がどのような信仰の対応を示しているかを表明したものです。私たちは、この信仰の特色を特異なものであるとは考えません。むしろ「聖徒にひとたび伝えられた信仰」(新約聖書ユダの手紙3節)であり、聖書の教えから見ても、教会の歴史から見ても、神学の立場から見ても、健全なものであることを信じています。

【1】聖書信仰

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Uテモテ3:16) 私たちは、このみことばが語っているように、聖書の十全霊感を信じています。ですから、基督兄弟団の教憲には、聖書信仰について次のように表明されています。

「聖書は、神の霊感を受けた人々によって書かれたもので、誤りのない神のことばである。この聖書は、旧約と新約の六十六巻から成り立ち、その中心はイエス・キリストであり、信仰と生活の唯一の規範である。」

聖書信仰の意味について、3つの点を確認しておきたいと思います。

@ 聖書正典の規範性を信じる正典は絶対的権威を持っているので、私たちは常に信仰と生活の唯一の基準、また規範として、聖書に聞き従っていくべきであると考えます。

A 聖書の十全霊感を信じる聖書全巻は聖霊による所産であるので、無謬なのです。ですから、聖書の主張、宣言、約束など、すべての面に全き信頼を寄せられるのです。

B 歴史的教会の信仰にあずかる聖書信仰とは、単に聖書を個人的に理解することだけではありません。「聖書を信じる」ことには、「聖書を正典として信奉した歴史的教会の信仰にあずかる」ことが含まれています。ですらか、歴史的主体である教会を抜きにした聖書信仰などはあり得ません。また、私たちが聖書信仰の立場を堅く守っていかなければならない最大の理由は、これこそ主イエス・キリストが聖書(旧約)に対して持っておられた信仰であるからです。(マタイ5:18、ヨハネ10:35)

【2】ウェスレー・アルミニウス主義

宗教改革の礎石は、マルチン・ルターの霊的経験によって据えられたと言われています。信仰と道徳の唯一の源泉としての聖書の至上性、信者の万人祭司制、特に「信仰のみ」によって義と認められる福音の真理の回復への貢献は偉大です。しかし、プロテスタントの神学的立場の確立に大きな影響を与えたのは、ジョン・カルビン(1509〜1564)です。

カルビンは、アウグスチヌスの予定説を高く評価し、神学体系を首尾一貫して「神の絶対主権」に置きました。彼の神学は、後継者たちによってさらに押し進められ、ついには「堕落前予定説」という人間の自由意志を全く否定した極端な教理を決定するに至ったのです。

ヤコブス・アルミニウス(1560〜1609)は、カルビン主義が、聖書の教理から出発しながらも人間的推論によって歪曲された、誤った教理であることを指摘し、後にアルミニアズムと呼ばれる神学体系を発展させました。 ジョン・ウェスレー(1703〜1791)は、アルミニウス主義を継承し、さらに「点火されたアルミニアズム」と呼ばれる福音的信仰のリバイバルに貢献しました。その信仰の特徴は、

@ 歴史的な諸信条を尊重するだけでなく、聖霊によって経験した神の愛の実践

A 主イエス・キリストとの人格的な交わりこそ、信仰の中心であり、内住の御霊によって人格が主の御姿にまで変容されていくこと

B 聖霊による確証の教理を重んじ、キリスト者の完全を追及すること

C 福音を万人に有効な方法で宣証する強い情熱を有すること

D このために、教会が、グループや組織によって活性化され、活動できるようになること などです。


【3】四重の福音

聖書には、「四重の福音」ということばはありません。あるのは唯一の「福音」です。しかし、私たちが唯一の福音を受け入れる経験的要素から分類すると、この唯一の福音に4つの側面があることが分かります。四重の福音ということばを初めて用いたのは、A.B.シンプソンです。中田重治監督も「充実せる福音」を高く掲げ、聖書の福音を、新生、聖化、神癒、再臨の4つの側面から強調し、これを四重の福音と呼んだのです。

四重の福音は、基督兄弟団の信仰の骨格を形成する大切な信仰です。以下、簡単に紹介します。

@ 新生回心の経験には3つの側面があります。義認、新生、子とされることです。これらは人が罪を悔い改めてキリストを救い主として信じた時、同時になされる経験ですが、論理的には区分されるものです。

義認は、私たちの罪責を取り除く、神の司法的なみわざです。(ローマ3:21〜26,28、4:5)

新生は、罪過と罪に死んでいる霊魂に、神のいのちが分与されることです。(ヨハネ3:3〜7、5:24、Tペテロ1:23、エペソ2:1,5)

子とされることは、義認と新生の恵みにあずかった者が、神の家族に受け入れられ、子としての特権に回復させることです。(ローマ8:15,17〜23、ガラテヤ3:26)

ウェスレーたちは、人が回心を経験する前に神の先行恩寵があると説いています。また、回心の恵みの中で新生を重要視し、その中心に置くのは、救いの秩序において、新生は、この世におけるクリスチャン信仰の目標であり、核心である聖化の出発点だからです。私たちキリスト者は、この恵みの奇跡を経験していますが、日々キリストにある信仰を保持することに努めていかなければなりません。もし、罪と不信仰によって、この義認の立場を失った場合は、真剣な悔い改めによって再びその恵みに回復するように努めるべきなのです。

A 聖化「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(Tペテロ1:16)

新生は初時的聖化と言って、聖化の始まりです。聖霊はその時から私たちの中に変化のみわざを初められ、そのみわざが継続され、心と生活は聖き生涯を慕い求めるようになります。聖化の創始者は神ご自身ですが、人は神にゆだねられた恩寵手段を用いて聖霊のみわざに応答しなければなりません。聖化について考える時、大切なことは、

罪の問題/聖化の性質の問題/時の問題

です。人間はアダムにおいて罪を犯し、その本性は生まれながら神を神として認めない者になってしまいました。普通、これを原罪と言い、悪の根、腐敗性、内住の罪などと呼びます。新生の時、キリストの贖罪によって、犯した罪過は赦されますが、原罪が残存して人を悩ませるのです。原罪は行為ではなく状態ですから、赦されるのでなく、聖められなければなりません。

聖化の性質、またそれを受ける時については、いくつかの見解があります。その代表的なものは、ローマ・カトリック教会、ルター主義、カルビン主義、そして、ウェスレー主義です。ウェスレー主義においては、新生によって初時的聖化を経験した者は、この世において「全き聖化」に進むべきであるとします。ウェスレーはこれを「キリスト者の完全」と呼びました。キリスト者は、知れる律法に故意に背く罪を犯さないという点で完全であり得るのです。この完全は「愛の完全」であり、「キリストに似ることの完全」です。

「全き聖化」と呼ばれる聖化の経験は、瞬間的なみわざです。信者は初時的聖化を受けた後、さらなる罪の悔い改め、自我の明け渡し、全き献身によって、信仰により古き人の腐敗性からの解放を瞬間的に経験します。この転機は、一面においては、古き人の十字架による磔殺(たくさつ)経験であり、他の面では御霊のバプテスマ、キリストの主権的内住のみわざです。

その後、信者は、信仰と内住の御霊の働きによって成長し、栄光から栄光に進み、キリストに似ることの完全にまで進みます。この漸進的成長は、この世を去るまで、または栄化の瞬間まで継続されていきます。私たちは、このような聖化の必須性を強調します。それは聖書の中に約束され、勧告され、命令として与えられているからです。(Tペテロ1:16、Tテサロニケ5:23、ヘブル12:14、Uコリント7:1、ガラテヤ2:20)

B 神癒

肉体の価値について聖書は正しい評価を与えています。禁欲主義や情欲のために肉体は損なわれてはなりません。むしろ「聖霊の宮」として聖く保たれなくてはなりません。健全なキリスト教信仰は、肉体の病を癒す神癒にも正しい位置付けをしています。

神癒は、キリストの贖罪の中に含まれてる恵みのみわざです。聖書には肉体の癒しの記事が多くあり、イエス・キリストもそのご生涯の中で、おもなみわざの一つとして癒しのわざを行なわれました。さらに使徒の働きの中でも、癒しは福音宣証のために用いられた有効なみわざでした。

聖書は、人類に対する罪の侵入が病の遠因であることを告げています。そして、キリストの贖罪は、全人的にその人を健全に回復することです。福音の招きは「キリストのいのち」に帰れというものです。彼が私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負ったのです。(イザヤ53:4,5)そして、彼は私たちのいのちのために死人の中からよみがえられました。

私たちは、やがて受ける栄化の保証、手付けとして、神癒を求めることができるのです。

C 再臨

一般に典型的な世界観は、「初めもなく終わりもない世界」ですが、聖書は、万物の初めと終わりを明確に告げています。しかし、終わりは単なる終結ではなく、完成です。「キリストによる万物の救済の歴史」というのが聖書が持つ構想であり、内容の指針です。旧約の預言者たちは罪によって破壊され、腐敗、堕落した人類と世界を究極的に救うメシヤが来られることを預言しました。

やがて、来られたメシヤ(キリスト)によって、その来臨には二重性があることが分かりました。初臨と再臨です。旧約聖書は、初臨(キリストの誕生)について300回以上、再臨については1500回以上も言及しています。初臨の約束はすでに成就されました。今、私たちは、キリストの再臨を待つ恩寵の時代に生きているのです。

【4】祈祷と宣教

1930年(昭和5年)に、中田重治監督の指導下で、日本ホーリネス教会はリバイバルの恵みを受けました。その中で特に聖霊によって強調されたことは、「終末時における教会の使命は何であるか」ということでした。基督兄弟団は、そのリバイバルの中から示された「終末時における教会の使命」を忠実に受け継ぐ群れとして立てられた教団です。健全な聖書信仰に立ちつつ、伝統的信仰の遺産を正しく継承していくことに、これからの課題があります。

祈祷と宣教に関して、以下の4つの点を挙げることができます。

@ 再臨の待望と促進
キリストの再臨は、ただ知っているとか信じているだけでは不十分です。再臨信仰には、準備、待望、促進の3つの要素があります。

第一の準備は、再臨と聖き生涯との相関関係にあります。テサロニケ人への手紙第一やペテロの手紙第一などに記されているように、全き愛としての聖き生涯を求めることと再臨信仰とは、必須的な相関関係にあります。徹底した聖き生涯は、生きた再臨信仰をもたらし、健全な再臨信仰は、愛の完全をも追求させるものです。

第二の待望は、贖われた主の花嫁の叫びに根拠があります。愛する花婿が一刻も早く、いばらの冠に替えて栄光の冠を受けられることを願うのは当然です。主イエスは、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈るように弟子たちに教えられました。

ヨハネは、「しかし。わたしはすぐに来る。」という御声を聞き、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と祈りました。

第三の促進は、マタイ24:14のみことばから導き出されます。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」…ここから、再臨の時は、福音宣教の進展とのかかわり合いの中にあることが分かります。また、主イエスは、全世界に対する宣教の大命令を教会に与えられました。(マルコ16:15)

さらに、Uテモテ4:1,2では、再臨待望が、宣教の純粋な動機であることも示されています。

A イスラエルの回復
神の選民イスラエルは、世界に聖書とメシヤを与えるために選ばれました。神はイスラエルの始祖であるアブラハムを召して、次の約束を与えられました。
 1)パレスチナに一つの国を授与されること
 2)アブラハムと彼の子孫は偉大な国家になるということ
 3)祝福が選民を通して全世界に及ぶこと

これらの約束は、その後、イサク、ヤコブ、またダビデに対して繰り返して確認されました。イスラエル民族は、神の救済のみわざを担う中心民族として選ばれたのです。そして、彼らの不信仰と不従順にもかからず、神の約束は必ず成就することが証しされてきました。 「教会、すなわちそれを構成するクリスチャンがアブラハムの子孫である」また「預言者たちの語ったことばは、新約の教会の中に成就されている」という主張がありますが、確かにそのことも真理です。しかし、教会がイスラエル民族の肩代わりになってしまったので、もはやイスラエル民族は贖罪のみわざの担い手ではないと考えることは、大きな誤りです。少なくとも私たちは、この立場に立ちます。

B 国内宣教とリバイバル
キリストの福音は、エルサレムから始まって全世界に宣べ伝えられています。私たちのエルサレムは日本です。私たちは日本を愛し、祖国日本の同朋のために、使徒パウロと同じ重荷を与えられたいと願います。(ローマ9:1,2)

私たちは、日本が、政治、経済、文化のすべての領域に至るまでキリストのもとに立ち返るために、忠実な福音宣証を続ける責任があります。それは、日本人が神から与えられたタラントを十分に活用して、アジアを始め全世界の国々に、福音をもって仕える使命を遂行するためです。

特に、日本の教会は、日本が過去の誤った道を再び歩むことがないように、祈祷と宣教において預言者的見張り人としての責務を負っています。

宣教は、教会に与えられた使命です。リバイバルは、神が主権をもって介入される御霊のみわざです。教会が与えられた使命を忠実に行なっていくときに、神はご自身の責任においてそのみわざを起こされるのです。

C 世界宣教とリバイバル
私たちの宣教地は全世界です。イエス・キリストの宣教命令には、国内とか国外の区別がありません。現代は、宣教の歴史において、まさしく終末的な刈り入れの時です。世界中に今や「後の雨」(ヤコブ5:7口語)が降り注いでいます。世界的規模のリバイバルこそ、再臨を目前にした教会にとって必須的重要性を持った祈りの課題です。

私たちが宣教の歴史から学ぶことは、すべての霊的運動、リバイバルと呼ばれる神のみわざは、聖霊の自由な働きの結果であり、それをもたらすものは、教会の現状認識、渇き、悔い改め、そして、一致した忍耐強い祈りです。