2008年1月20日(日)礼拝メッセージ
パウロの大胆と確信大転換

エペソ3:9〜12
日本が生んだ世界的な神学者の一人に、渡辺善太という先生がいます。渡辺善太先生が「説教ゼミ」というのを開いて、日本全国の神学者や牧師を集めて、説教の講習会をしました。その説教学の中で、大学の教授や、神学校の教授を前にして、こうおっしゃった。「愛する皆さんは、牧師として、説教者として立てられておる。説教者というのは、毎週日曜日に、午前十時半から約40分か50分、説教する者、人々に向かって説教する者であると思ってはなりません。教会には目に見えないイエス様の働きがあると同時に、目に見えないサタンもまたクリスチャンを堕落させようとして一生懸命だ。私たちの説教は人に聞かせると同時に、天上にいるサタンに向かって神の力を、神の福音の勝利を宣べ伝えていくのが説教だ」と言われました。まさにこのパウロの信仰を継承した渡辺先生にして、初めて言えたことであると思います。私たちのクリスチャンとしての地上の歩みもまたそうです。人々の前に証しになると共に、また千々万々の御使いの前に証しとなるでしょうし、サタンは皆さんの恵まれた姿と力強い信仰の姿に打ち破られて、彼もその場所を失っていくのです。

一、知る大切さ
3:10
これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
新共同訳「知らされるようになった」
パウロはここで、「知る」必要を説いています。1865年、アブラハム・リンカーンは奴隷解放の南北戦争に勝利して、黒人たちはついに自由が与えられた。それにもかかわらず、解放令を知らない奴隷は、「そんな虫のいいことはあり得ない」として、なお黙々と牛馬のように使われていた。これは悲劇です。リンカーンが大統領につくと南北戦争が起こり、多くの国民の血は流され、リンカーン大統領も銃弾に倒れた。その犠牲の上に実施された奴隷解放令の福音も、知らなければ猫に小判、豚に真珠と等しい。
同じように、パウロが伝えつつある福音は、天地の創造者なる神がその栄光を捨てて罪の世に下り、人類に永遠の祝福を与えるために十字架上で血を流し、命までも与えて下さった。そして死からよみがえり、昇天して父のみもとより聖霊を注いで、永遠の大会合にあずかるべく「来たれ」と招いておられます。そこには選民も異邦人も等しく迎え入れられます。パウロは今、その福音を異邦人に伝えたために獄中にいるのです。

二、確信をもって
3:12
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
「確信をもって神に近づくことができる」素晴らしい希望の言葉です。人間にとって最大の、そして最高の課題は、「確信をもって神に近づくことができる」か否かということでしょう。
神に近づくことは、裁かれることにつながるのではないか、という恐怖ではなく、神の救いにあずかる喜びであるはずです。
「近づく」と言う言葉は聖書の中で色々な意味があります。キリストへの信仰をもって近づいて来るのではなく、むしろ悪意をもって近づいて来る光景です。
マタイ19:3「パリサイ人たちがみもとにやって来て(近づいてきて)、イエスを試みて、こう言った。」。
マタイ26:46「見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」。
ルカ22:47「十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた」。
これらは、人の方からイエスに近づく時の特徴です。
しかし全く別の近づき方があります。
マタ17:7「すると、イエスが来られて(近づいてきて)、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた」。
主の山上の変貌で、恐怖におののいている弟子たちへの救いの言葉です。
ヨハネ6:19〜21「こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」
この特徴は、イエスが人々に近づいて来られた時には、救いが必ず起こるのです。
しかし、使徒たちの手紙になると、また別です。
エペソ2:18「父のみもとに近づくことができるのです」。
ヘブル4:16「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。
ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」。
このようにエペソ3:12の「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」を支援するような表現が目立ちます。これらは結局同じことを言っているのです。
大事なことは、私たちが神と直接に向かい合うこと、そこで神の愛を受け入れ、わたしたちの神への信頼、信仰を捧げることなのです。そのように神と私たちとが生きた交わりをもつことが大切なのです。
しかし、このような神と私たちとの出会いがあるとき、一つだけ非常に重要なことがあります。それは「大胆に確信をもって」という態度をとることができるかどうかです。
「確信をもって」とは、ギリシャ語の意味では、あけっぴろげな率直さのことです。気おくれしないことです。原語のパレーシアという言葉が、旧約聖書のギリシャ語訳聖書の中に、一回だけ使われています。それは、レビ26:13です。
「わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」
この原語の意味を生かして、エペソ3:12を、そのまま言い換えてみましょう。
「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって、大胆にまっすぐに立って、神に近づくことができる」。
「まっすぐ立って歩く」という姿勢は、十字架の主、復活の主の御前においてです。キリストの十字架に向かってまっすぐに立つ、決して気後れしない。十字架の上の主を見つめてもなお、気後れしないのです。
なぜならキリストの十字架は、私たちの罪のゆえの悲惨な出来事でした。パッションの映画のように見るに絶えない場面でした。しかし、それは神が御子によって私たちに賜わった、命がけの愛の業なのです。どうして気おくれしたり、尻ごみしたりすることが許されるでしょうか。主は「このわたしの命を受けよ」と、命じられたのです。キリストの十字架のこ苦難を見て、尻ごみせず、主の命に近づくのです。主の苦難は神が私たちに与えて下さった光栄だからです。
パウロは、牢屋に入れられてしまっては、伝道なんかできない。彼は思想犯ですから、彼の両脇にいつも自分を守っているローマの軍人がいました。前と後にも、四人一組の兵隊から守られて、いつも逃げ出さないように護衛されていました。そんな中で、パウロは自分を番している兵隊たちに福音を伝えたのです。このパウロを獄の番人のようにして守っていた兵隊たちは、ローマの皇帝の近衛兵でした。近衛兵が囚人を番するなんて、もっとも不名誉なことで嫌がることだった。だが、パウロの護衛を命じられた者たちは、早くその交代の時間がこないかと言って、交代を願ったことでしょう。四人一組の兵隊によって、四組の人々が六時間交代でパウロを番していた。この兵隊たちに奥義を伝えたのです。
「神の恵みはユダヤ人だけではない。番兵のあなたがたにもある。あなたがたは本当の平安がないだろう。こんな軍服を着て、私を守って、私の命を取ることができるかもしれないけれども、私には、あなたがたの力でも取ることのできない、キリストの救いが、永遠の平安が私の魂のうちにある」と、パウロは語ったのです。その時に、その兵隊たちが救われて、クリスチャンになっていったのです。