聖書の基本的教え
■第一章 聖 書
人類の歴史には多くの影響を与えた書物があります。しかし、聖書はその内容と影響力において、他のものと比較することができない書物です。
聖書の著作が完成されるまでには、約1600年の歳月がかかりました。聖書は約40人の人々によって書かれましたが、真の著者は神です。神は有限な人間の探求のみで発見出来るような御方ではありません。絶対他者でいます神は聖書を通して人間に語って下さるのです。実に聖書は神のことばであり、ここに他の経典と比較できない理由があります。
聖書は定まった目的をもって書かれています。この目的を度外視して聖書を用いることは間違いです。そこで、聖書が書かれた目的を理解するために、聖書とは、聖書の権威、聖書の内容、聖書の中心主題の四項目に分けて説明しましょう。
第一節 聖書とは
キリスト教信仰は、聖書を信仰と生活の唯一の規範とする信仰です。聖書66巻には、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の文書が収められています。旧約、新約というのは旧い契約、新しい契約という意味で、神が人類に対して約束された救いの契約のことです。この契約はイエス・キリストの歴史的出現を境として旧と新に分けられています。
聖書は単なる宗教の経典というよりも、更に高い次元を持つ文書です。それは創造者である神が人類と世界を罪ののろいから救い、回復される全計画を明らかにされた啓示の書です。
66巻の文書によって構成される聖書を正典として定めたのは、四世紀のキリスト教会ですが、歴史的教会は、いつの時代に於いても、この正典結集の業は単なる人間の業ではなく、教会を常に導かれる聖霊の御業であったと確信させられてきました。
私たちは聖書によって、
1.神とそのみこころを知り、
2.万物の起源とその存在の目的を理解し、
3.イエス・キリストとその救いの御業にあずかることができるのです。
第二節 聖書の権威
聖書正典を教会の規範、または基準として信じるということは、聖書が教会を規範する権威を所有していることを示しています。ですから聖書は私たちが勝手に処理できる「それ」ではなく、第三者として取り扱う「彼」でもありません。聖書は私たちに神的に立ち向かう「汝=あなた」としての権威なのです。
聖書の権威はイエス・キリストが主張されています。(ヨハネ10:35)使徒たちもその権威を主張しました。(2テモテ3:15、16、2ペテロ1:19〜21)
ローマ・カトリック教会では、しるされた神のことば(聖書)と、しるされない神のことば(伝統)とを並列的に二本立ての権威としていますが、プロテスタント教会では聖書のみを唯一の権威の書として信じています。
人間は誰でも、ある種の判断の規範を自己の中に持っています。しかし、キリストによる救いによって新生した者は、聖書の権威ある規範によって自己的規範を打ち破られ、克服されます。このことが中途半端である場合は、いつも聖書を色メガネをもって読むことになり、都合の良い参考書になり変わってしまう恐れがあるので注意が必要です。
第三節 聖書の内容
現在、私たちが使用している旧約聖書は七十人訳(ギリシャ語訳)に従って配列されていますが、へブル語原典では律法、預言言および諸言の順序で構成されています。
律法(モーセ五書)は選民イスラエルの指導者モーセを介して与えられた律法を中心主題としています。この中には、宇宙の創造、人間の堕落、洪水による審判、アブラハムの召命、出エジプト、シナイ山上での律法授与、荒野放浪、モーセの死の記録などが含まれています。
預言書には前預言書と後預言書があり、前者にはヨシュア記、サムエル記、列王記が属し、後者にはイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二預言書が属します。預言書は与えられた律法に対するイスラエルの背信を述べ、その背信の民を警告するために、預言者たちが遣わされなければならなかった必然性を述べています。しかし、預言者たちの使信は審判だけでなく選民の回復も告知するのです。
諸書には、詩篇、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道者の書、エステル記、ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記、歴代誌などが属します。ここでは選民的特殊性から異邦世界へと舞台が広がって行きます。選民イスラエルの選び主であられる神は、異邦諸国の中に隠れて働かれる神であること、究極的に世界全体を救われる神であることを述べています。
以上、旧約聖書の中に一貫して流れている教えは、神のメシヤによる世界救済の御計画です。その約束の成就としてイエス・キリストの降臨があり、新約聖書が生まれたのです。
新約聖書も三区分から成り、福音書、教会書、そして預言書の順序で配列されています。福音書にはメシヤであるイエス・キリストの御生涯と教え、特に十字架と復活の事実が重点的に述べられています。
教会書では、冒頭の使徒の働きに、聖霊降臨による教会の誕生が記されています。聖霊に導かれて形成される教会は、そのあるがままの姿から、あるべき姿に変えられて行かなければならないことが、21巻の手紙の中に教理と実践の二面から教えられています。この中に教会をキリストの再臨にふさわしく変容させようと働いておられる聖霊のお働きが脈動しています。預言書(黙示録)は、ほふられた小羊こそ、贖いの御業の中心であり、永遠の誉れを受けるべき御方であることが記されています。世界と人類の完成者であられる主は、この中で終わりを急いでおられることを訴えておられます。私たちは醒めた心をもって御国の完成を祈らなければなりません。
第四節 聖書の中心主題
使徒ペテロによって記された次の聖句は、聖書の中心主題が何であるかを教えています。「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」(1ペテロ1:11)
「キリストの苦難とそれに続く栄光」このメシヤの二重の来臨によって、神は人類と世界を罪ののろいから救い出されます。これが聖書のテーマです。旧約聖書は、その予告と約束であり、新約聖書はその成就と完成です。
創造の冠として造られた人間が、自由意志を乱用して罪を犯し、神に反逆した時からのろいは全世界に広がりました。審判を受ける以外、何の資格もない人類の世界に、神は愛ゆえに救い主を遣わし、その十字架によって救いの業を成就されました。これがキリストの苦難です。キリストは三日目によみがえり、昇天されましたが、再び来られて、世界の審判と共に、救いの御業を完成されるのです。これがそれに続く栄光です。
神はこの救いの御業を担うためにイスラエル民族と新約の教会を選び出されました。彼らはそれぞれ旧約聖書、新約聖書を生み出す母胎、また、活動舞台となりました。現在私たちは恵みの時代に生きています。聖書は「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」ために与えられたいのちの書なのです。(ローマ10:13)
(注)現在、聖書協会発行の新共同訳については、続編として入れられているものは正典ではありません。
■第二章 真(まこと)の神
有限な人間が神を知るためには理性による探求だけでは不可能です。神は自然、歴史、良心を通してその存在を一般的に啓示しておられます。神の御本質、みこころ、御業などは聖書の中に特別に啓示されています。私たちは聖書を開くまで真の神を知ることが出来ません。
私たちは多くの神々と呼ばれる偶像の社会に生まれ育ちました。また、哲学的な思弁の神知識に影響されているかも知れません。ですから正しい神信仰に立つためには、啓示された神のことばを良く調べ、学ばなければなりません。
聖書に啓示された真の神とは、どのような御方でしょうか。神は本質において、無限、永遠、不変の霊であり、属性として知恵、力、聖、義、善、真をもっておられる愛の神です。
この項では、キリスト教信仰において生命的な重要性をもっている神概念、つまり世界にはただおひとりの神のみが存在しておられること、しかも、このおひとりの神が、父、子、聖霊、という三位格の神であられることを述べることにします。この三位一体の神に対する信仰こそ、正統的キリスト教と異端とを見分ける根本的な基準なのです。
第一節 三位一体の神
キリストの教会は、四世紀までに聖書正典の結集と聖書信仰の教理的確立の業を成し遂げました。その中で特筆すべきことは、三位一体の教理の確立です。聖書本文には三位一体という言葉はありません。しかし、三位一体の神についての真理は溢れています。
現在、私たちの信仰の根幹をなすこの教理は、歴史的教会が信仰によって勝ち取った偉大な遺産です。ここに有名なアタナシウス信条に宣言されているこの信仰を紹介します。
「私たちは三位を混同せず、しかも、実体を分割しないで、三位において唯一人の神を、一体において三位を礼拝する。父の人格(位格)と、子の人格(位格)と、聖霊の人格(位格)とが存在するからである。しかも父の神性と、子の神性と、聖霊の神性は、すべて一つであって、栄光は等しく、みいつは共に等しく永遠である。父がそのような方であるように、子はそのような方、聖霊はそのような方・・・父は神であり、子は神であり、聖霊は神である。しかも三つの神が存在するのでなく、唯一つの神が存在するのである。」
この教理の大切な点を二、三あげましょう。
1.神の唯一性
神は至高なる存在者であって、ただおひとりです。これについて聖書は「神は唯一です。」(1テモテ2:5)「神は唯一者です。」(ガラテヤ3:20)と述べています。(申命6:4、出エジプト20:3、イザヤ43:10、11参照)
2.聖書の中に父、子、聖霊が同格に一示されています。
@主のバプテスマにおける神の顕現
イエスがバプテスマを受けると聖霊が目に見える鳩の形で現われ、開けた天から父が語られた。(マタイ3:16、17)
Aバプテスマ方式
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け・・・」マタイ28:19)
B使徒の祝福
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(2コリント13:13)
Cその他
(ヨハネ14:16、1コリント12:4〜6、エぺソ4:4〜6参照)
3.人格(位格)
三位一体の神における人(位格)と人間や天使たちに付けられている人格との相違は、後者の場合は、各人が自己の質を持っていますが、三位一体の場合は、三つの人格(位格)に対して、唯一つの本質しかないことです。三位格は同質(ホモウシオス)であるとされています。
以上の真理を前提として、父なる神、子なる神、聖霊なる神について、聖書は次のように述べています。
第二節 父なる神
万物の創造者、主権者について、聖書は父なる神と呼んでいます。「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」(1コリント8:6)
この御方は「私たちの主イエス、キリストの父なる神」とよばれています。(2コリント1:3)実際にイエス・キリストは、御生涯において、御父として親しく交わった神を、私たちに天父として紹介してくださいました。
キリストは「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。」(マタイ11:25)「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。」(マルコ14:36)と父なる神を全能者として呼んでおられます。
なお、父なる神は永遠者(イザヤ9:6)であり、聖なる父(ヨハネ17:11)、善と憐れみの根源(テトス3:4、1ペテロ1:3)、栄光の神(ヨハネ17:5)です。また、万物の究極の目標(ピリピ2:11)として礼拝をお受けになる神です。(ヨハネ4:23)
第三節 子なる神
キリストの両性一人格の教理は、歴史的教会が三位一体の教理と共に信仰によって勝ちとった遺産です。まさしくイエス・キリストは真の神であり、真の人です。イエス・キリストが子なる神であることは、次の聖書的真理が示しています。
1、彼は永遠である。
「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:17、ヨハネ1:2、黙示1:8)
2、彼は不変である。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(へブル13:8、1:12)
3、彼は偏在する。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20、18:20、エペソ1:23)
4彼は全知である。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」(ヨハネ2:17、2:25、1:48)
5、彼は全能である。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18、ピリピ3:21、へブル1:3、黙示1:18)
6、彼は生命である。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11:25、14:6、五:21)
御子イエス・キリストは、神御自身のみに特有な御働きをなさっておられます。
1、「創造(ヨハネ1:3、コロサイ1:16、へブル1:10)
2、保護(コロサイ1:17、へブル1:3)
3、罪の放し(マルコ2:7、10)
4、死人をよみがえらせる。(ヨハネ6:39、2コリント1:9)
5、世をさばく(ヨハネ5:22)
特に御子キリストが神であられる聖書的理由は、彼が礼拝を受けられる御方として示されていることです。(黙示5:12、13、ピリピ2:10)このキリストは「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示され」ました。(ローマ1:4)
第四節 聖霊なる神
キリスト教の異端の特徴は、聖霊の人格性と神性を否定するところにあります。また、異端でなくても、教会が聖霊を現臨の神として崇めなくなるとき、信仰的に後退してしまうのです。
聖霊の人格性については、新約聖書の中で、彼は教え、語り、導き、証しするというような人格的行動をされる御方として二百回以上も記されております。また、聖霊が人格として、「逆らわれる」(使徒7:51)「侮られる」(へブル10:29)「欺かれる」(使徒5:3)「悲しまれる」(エぺソ4:30)御方としても示されています。
聖霊の神性については、次の箇所で「神の名」が聖霊に帰せられています。(使徒5:3、4、1コリント3:16、2サムエル23:2、3)なお、聖霊は神の属性を所有しておられます。
1、永遠「とこしえの御霊によって神におささげになったその血」(へプル9:14)
2、偏在「わたしはあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。」(詩篇139:7)
3、全知「御霊はすべてのことを探り」(1コリント2:10)
聖霊の御職分の中でも最も重要なものは、「キリストの栄光の顕現者」ということです。イエス・キリストの御生涯は、事実、聖霊の顕現であり、御霊に満ちた生涯の完全な典型でした。
■第三章 罪
科学の進歩によって物質世界の真相が究明されつつあります。レントゲン写真は人体に巣食う病原が何であるかを明らかにします。それでは世界と人類に広がる腐敗と堕落の原因は何でしょうか。聖書はそれを罪と呼んでいます。
罪が実際的なものであることは、次の三つの点で確認されます。
1、人間の歴史は、戦い、騒乱、病気、死に満ちています。そこには罪の汚点が残っており、被造物は罪のしるしを帯びているのです。
2、人間の良心は、自分が罪の性質をもっていることを証ししています。正しく自分を見つめる人は、だれ一人自分の性質と行動において罪がないと主張できる者はいないはずです。
3、聖書は罪が実際的なものであり、罪の起源とのろい、そこからの救いを述べています。
第一節 原 罪
聖書は罪が二重性を持っていることを告げています。それは犯した罪と原罪です。原罪はアダムの堕落に起因しています。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
アダムによって人類全体は死と遺伝的腐敗性において連帯的相続を受け継ぐ者となりました。神学において原罪と遺伝的腐敗性とは殆ど同義語に使われています。
ダビデは「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)と叫んだとき、人間の倒錯し、歪曲された罪の性質は生命の発端から存在していることを述べたのです。
新約聖書において、イエス・キリストも「人から出るもの、これが人を汚すのです。」(マルコ7:20〜23)と、悪の特色は人間の生まれつきのままの心にその源泉があることを主張されました。パウロはこの遺伝的腐敗性を「肉」という言葉で繰り返しのべています。(ローマ7:17、:18、8:5、8、13)その他古き人、自我、まとえる罪、苦き根などの用語はみな「原罪」を指すのです。
ジョン・ウェスレーは原罪について「原罪とは、すべての人の性質の腐敗であって、これにより人は自身の性質において、悪に傾き、肉が御霊に逆らって欲求するようになる。」と言っています。原罪はそれ自体、腐敗した性質状態であるので、赦されるのではなく、きよめられなければなりません。
第二節 行為や思いにおける罪
渋柿は自然的に渋柿の実を結びます。遺伝的腐敗性の中に生まれてきた人。は、意思的に神の律法に違反し、気質、態度、行為において、神の戒めに不従順を示します。
新約聖書には罪に関する用語は八つの語幹から出た28種類のものがあります。その中の主なものは次の五つです。
1、罪は不法です。
私たちが神の律法に違反する行為をした時、また、神の定められた境界線を踏み越えたとき、その他禁じられた悪の領域に押し入るとき、不法の罪を犯すことになります。(1ヨハネ3:4、マタイ7:23)
2.罪は不義です。
私たちは心の中に生ずる動機を、人の目、或いは神の目からごまかそうとします。この心の中から湧き出てくる邪悪が不義です。(1ヨハネ5:17、2テサロ二ケ2:12)
3、罪は的外れの行為です。
神の標準はイエス・キリストによって示されています。ですから、その手本から外れている生涯は「的外れ」の罪を犯しているのです。(ハマルティアは新約聖亡の中に200回以上出てきますが、75回が複数の罪、つまり行為の罪を指しています。)
4、罪は侵害の一種です。
人間の意志が神の権威の領分にまで押し入り、自己の目的を達成しようとする積極的な罪です。利己主義は、盗み、殺人と同じ明確な罪です。(使徒1:25、ヘブル2:2)
5、罪は不信仰です。
不信仰が罪である理由は、それが神の真実に対する侮辱だからです。神を信じないものは、神を偽り者とするからです。この罪はすべての罪の根本にあります。(1ヨハネ5:10、へブル3:12)
以上、聖書が示す罪は、単なる倫理的な概念ではなく、基本的には宗教的なものであり、神に対する人間の在り方が根本に問われているのです。
罪に対する見解において大切なことは、「内面的な意図」ということです。ウェスレーは「罪は、正当に言うなら愛の律法のあらゆる意識的違反以外の何ものでもない。」と言っています。勿論、意識、無意識を問わず、すべての過失はキリストの贖罪の恩寵を必要としています。
■第四章 救 い
キリスト教信仰の中心主題は、イエス・キリストによる罪からの救いです。人類の歴史はこのために二つの流れに従って準備されて来ました。一つは異教世界の中に見られるもので、人間が熱心に自力で神を追及する努力の歴史です。(使徒17:27)他はイスラエル民族の中に見られる啓示の歴史です。そこには神の絶え間ない人間への接近があります。キリスト教は本質的に、人間から神に向かう宗教ではなく、神から人間に与えられる救いの福音です。
第一節 十字架
キリストの十字架より流れる真理は無尽蔵です。救済史から見るとき、
1、律法の除去があります。
キリストは十字架により律法の終わり(ローマ10:4)となり、さらにすぐれた契約の保証となりました。(へブル7:22)今や至聖所に入る道は開かれ(へプル9:8、10:19〜22)、すべて神に来るものが祭司として主に仕えることが出来るのです。(1ペテロ2:9、黙示1:6)
2、隔ての壁の打破があります。
イスラエル民族を世界の諸民族から隔てていた壁・中垣が除かれました。(エぺソ2:15)両者の間には、十字架以前にはある種の「敵意」(エぺソ2:15)がありましたが、今や新約の時代では一体となるのです。
このように、キリストは十字架において神との和解とともに、人間相互の和解をも与えられました。(2コリント5:18、19、エぺソ2:13〜16)
神にとってキリストの十字架は
@最大の義の証明です。(ローマ1:17、5:8、9、8:33、2コリント3:9、5:21)
A最高の愛の証明です。(ローマ5:8)
B無限の富の顕示です。(エぺソ3:18、19、黙示5:9)
キリストが十字架上で流された御血潮は、私たちの救いに対して次のような恵みを与えてくれます。
@キリストの血は贖います。(1ペテロ1:18、19)
Aキリストの血は神に近づけます。(エぺソ2:12、13)
Bキリストの血は平和を造り出します。(コロサイ1:20)
Cキリストの血は義とします。(ローマ5:9、8:33、34)
Dキリストの血はきよめます。(1ヨハネ1:7)
以上のような恵みを受けるためには、悔い改めと信仰が必要です。
第二節 悔い改めとは信仰
新約聖書では、救いの条件として、神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰とを結び合わせて述べています。(使徒20:21)それは信仰が救いの唯一の条件であり、悔い改めが信仰の条件だからです。
1、悔い改め
真の悔い改めは、心が罪のために砕かれ、罪から引き離され、真実を込めて神に帰ることです。新約聖書の中には、悔い改めは(メタノイアー名詞、メタノエオー動詞)それぞれ32回と34回出てきます。悔い改めが意味することは次のことです。
◎罪を自覚すること
◎悪の業を悲しむこと
◎有罪を認めて告白すること
◎心と生活の改革
悔い改めにおける神の働きと人間の働きの二つの要素は、いずれも両極端になってはなりません。神は悔い改めの創始者ですが、私たちに代わって悔い改めることはなさいません。神は恵みによって、私たちに悔い改めの行為能力を与えておられるので、人間が意志の選択と決断によって、神の恩寵の賜物である悔い改めをするのです。(使徒5:31、11:18、ローマ2:4、2テモテ2:25)
2、信仰
信仰とは、一般的には信頼を指します。ですから、救いの信仰とは、救い主の人格に対する個人的信頼です。信仰にも神的面と人間的面の二要素があります。つまり、信仰は神の賜物であるとともに、その行為は人間自身のものです。それは、あたかも神が人の代わりに悔い改めをされないのと同様に、人の代わりに信じることもなさいません。私たちが信じる以前に、恵みと能力が与えられているので、それによって、私たち自身が信仰を働かせるのです。
聖書は「人は心に信じて義と認められ」(ローマ10:10)と語っています。これは救いの信仰が思念の同意や感情的思慕でなく、人格の中心である心の働き、つまり、人間の全存在の働きであることを言っているのです。
なお、救いの信仰は、聖書に啓示されたみことばの真理に基づくものです。パウロはこのことを「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)と言っています。
第三節 義 認
救いの初時的状態である義認、新生、子とされることなどを、一般には回心と呼んでいます。回心の過程については、カルビン主義とアルミニウス主義とは見解が違います。前者では、人は絶対的望定によって新生をして、その後に神に立ち帰ると説きますが、後者では、人は先行的恩寵によって神に立ち帰り、その後に新生を経験すると主張します。私たちは後者の立場が聖書的であると信じています。
義認はキリスト教信仰の基本的教理であって、マルチン・ルターは「教会が立つか倒れるかを決める条項である。」と言いました。義認とは、恵み深い神の司法的な行為です。これによって神はイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れるすべての者に対して罪の全き赦しと、犯した罪の刑罰からの完全な釈放とを与え、これを義なるものとして受け入れるのです。(使徒13:38、39、ローマ3:24〜26、4:5〜8)
義認の基礎は
1、人間の代表としてのキリストの宥(なだ)めの供え物による神の義の十分な満足。
2、キリストの贖罪の御業の上に置かれた神の誉れです。
私たちは信仰によってこの恵みを受けるのです。義語は関係の変化であつて、状態の変化ではありません。私たちが実質的に変えられて行くのは聖化の領域です。
第四節 新 生
回心の経験は一つのものですが、義認と新生とは論理的に別々の経験を言います。義認は私たちの罪過を取り消し、刑罰を取り除くのですが、新生は私たちの道徳的性質を更新し、神の子供としての特権を確立することです。
ジョン・ウエスレーは、新生について「それは神の全能の御霊によって魂の中になされる変化であり、その時魂はキリスト・イエスにあって新しく創造され、義と真と聖とにおいて神の像に似せて新たにされるのである。」と言っています。つまり、新生とは、罪と告の中に死んでいる魂に対する、御霊による生命の伝達です。
聖書は、新生について
「新たに生まれる」(ヨハネ3:3、5、7)
「神より生まれる」(1ヨハネ3:9、4:7、5:1、4、18)
「御霊によって生まれる」(ヨハネ3:5、6)
「生かされる」(エぺソ2:5)
「死からいのちに移される」(ヨハネ5:24)などの表現をしています。
新生において与えられるいのちは聖なるいのちです。ウェスレーは新生を「初時的聖化」と呼び、聖化の生涯への門口であると説いています。
第五節 子とされること
私たちは義認、新生の恵みを受けるとき、同時に「子とされること」の特権にあずかり、神の家族の中に入れられます。聖書はこの祝福を次のように述べています。
1、神の子としての特権
私たちは「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:26)「もし子どもであるなら、相続人でもあります。・・私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
2、神の子としての確信
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)
3、永遠の嗣業への特権と資格
「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。」(1ペテロ1:4)
私たちはこの光栄ある恵みについて、御霊の働きを充分理解出来ないかも知れません。しかし、その事実は知り得ますし、また知ることが許されています。
パウロは御霊のあかしについて「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:16)と述べております。ウェスレー主義の信仰の特質の一つは、この「確証の教理」です。
第六節 聖化と成長
聖化(全的聖化)は新生に次いで信仰者の生涯になされる神の御業です。これによって信仰者は原罪(腐敗性)から自由にされ、全うされた愛による聖なる服従の状態に入れらます。聖の恵みはクリスチャン経験の聖書的標準です。
1、神の民が聖くあることは、神のみこころです。(1テサロニケ4:3、エぺソ5:17、18)
2、神は御自身の民をきよめると約束されました。(エゼキエル36:25、マタイ3:11、12)
3、神は御自身の民に聖くあれと命令されました。(1ペテロ1:16、マタイ5:48)
聖化については、多くの用語があり、それぞれ異なったニュアンスをもっていますが、私たちの中になされる同じ経験を語っています。それらは、完全な救い、ホーリネス、全き愛、聖霊のバプテスマ、第二の恵み、キリスト者の完全などです。
聖化の御業がなされるために、神の用いられる手段と動因は次のようです。
1、創始する原因は神の愛です。(1ヨハネ4:10)
2、それを獲得する原因はイエス・キリストの血です。(1ヨハネ1:7)
3、有効ならしめる行為者は聖霊です。(テトス3:5、2テサロニケ2:13)
4、手段としての原因は真理のみことばです。(ヨハネ17:17、1ペテロ1:22)
5、条件としての原因は信仰です。(使徒15:9、26:18)
私たちはこの聖化(第二の恵み)を転機的に経験します。それは新約聖書に用いられているギリシヤ語の時相(テンス)が特有な不定過去形(アオリスト・テンス)で用いられていることによって知ることが出来るのです。不定過去形とは、過去のある時点において一回限りで起こって完了したことを意味しまず。
1、「彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです(不定過去形--瞬時的に)。」(使徒15:9)
2、「救いの福音を聞き、またそれを信じたとによって(不定過去形)、約束の聖霊をもって証印を押されました(不定過去形)。」(エぺソ1:13)
3、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとして(不定過去形)くださいますように。」(1テサロニケ5:23)
4、その他(ヨハネ17:17、19、ローマ12:1、2コリント1:21、22、ガラテヤ5:24、へブル13:12、1ヨハネ1:9)
聖化の恵みは点で表わされる転機的経験であると共に、線で表わされる前進的過程でもあります。これは初時的望化がら全的聖化に至る準備的前進でもあり、全的聖化を経験した後、さらにキリストの完全にまで成長する、生命的前進の業でもあるのです。
ヨハネは聖化の点と線の二面性について、「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)と述べました。
■第五章 再臨と栄化
教会の目標は、天においてキリストと共に栄光を与えられることです。その実現は、キリストの再臨によってもたらされます。
第一節 栄光の望み
私たちはキリストの救いによって、すでに「むなしい生き方」(1ペテロ1:18)「律法ののろい」(ガラテヤ3:13、14)「すべての不法」(テトス2:14)などから贖い出されています。
しかし、いまだ「肉体の贖い」(ローマ8:23)「被造物自体の滅びの束縛からの解放」(ローマ8:21)を経験しておりません。現在はこの「すでに」と「いまだ」の間にある時代であって、教会は、被造物全体と共に贖いの完成の時を待っているのです。
キリストが十字架上で成就してくださった贖いの御業は、再臨によって完成されますが、その具体的実現は、次の四つの事件によって進められます。
1、キリストの空中再臨による携挙と第一の復活
2、天上におけるキリストのさばきの座
3、小羊の婚姻
4、地上再臨と千年王国の実現
聖書に啓示されている教会の栄光は、ほとんどすべては、来らんとする世に向かっています。
神の栄光が教会を通して現わされるのは、完全な意味において来るべき世であって、この世ではその発端を示しているに過ぎません。
携挙の恵みによって、教会(クリスチャン)は一瞬のうちに変貌し、栄化され、主の栄光と勝利にあずかるのです。(1コリント15:51〜53、ピリピ3:21)
キリストのさばきの座においては、救いの問題ではなく、報酬と損失の問題が間われます。(1コリント3:12〜15)聖書は聖徒たちに与えられる報酬を「冠」という形容で表わしています。それらは「栄光の冠」(1ペテロ5:3、4)「義の冠」(「2テモテ4:8」「朽ちない冠」(1コリント9:25〜27)「いのちの冠」(ヤコブ1:12)「誇りの冠」(1テサロニケ2:19)などです。
贈いの御業のクライマックスは小羊の婚姻です。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)
この大祭司であられるイエス・キリストの祈りが、遂に成就するのです。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。・・・花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19:6〜8)
このようにして、偉大なる奥義であるキリストと教会の結合は永遠に確立されるのです。最後に、キリストが王としてこの世界を支配するために、聖徒たちを従え、地上に再臨されます。(黙示19:11〜16)このようにして「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)との聖徒たちの祈りの万願成就の時が来るのです。
第二節 千年王国
現在は聖霊時代です。聖霊はこの地上で、天に帰られた贖い主に栄光を帰し、教会を召し、建て上げる業を成しておられます。ついでキリストが地上に再臨され、干年王国が出現します。この御国は御子イエス・キリストが御支配なさるのです。そして最後に、御子は御国を御父に渡し、御父の御国が永遠に実現するのです。(1コリント15:28)このように新約聖書の啓示の歴史は、三位一体的なのです。
千年王国が来るのは、旧約の預言者たちによって語られた神のことばがことごとく成就して、この地上に可視的な神の国が実現するときです。この王国は、キリストが栄化された教会と共に支配され、イスラエルは祝福された民として諸国民の中心に輝くのです。それは、あたかも旧約の幕屋(出エジプト25章以下)の至聖所にキリストが教会と共に座し、イスラエルは聖所であり、諸国民は前庭であるというような図式で示すことが出来ます。
この御国において、のろわれていた自然界も回復し、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8:21)
第三節 最後の審判
正義の神は公義を示すために審判を行なわれます。「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:14)この世では隠され、勝ち誇っている犯罪と、今はそしられ、圧迫されている善とは、やがて明るみに出され、神の正しい審判を受けるのです。クリスチャンはすでにキリストの十字架において、その罪がさばかれているので、再び審判を受けることはありません。(ヨハネ5:24)
千年王国の終わりに死者の復活が起こり、最後の審判が行なわれます。(黙示20:5)「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々はこれらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」(黙示20:11、12)
審判の根拠は、みことばです。「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:48)また、いのちの書が開かれます。この書の中に記されているところに従って審判が行なわれるのです。
審判の基準は「自分の行ないに応じて」です。(黙20:12)神は何と公平な審判者でしょうか。審判を受けた人々は、火の池の中に投げ込まれ、永遠の刑罰を受けるのです。これが第二の死です。(黙20:14)
第四節 新天新地
聖書の最後の主題は、新しいエルサレムを中心とする新天新地です。この都は実在の都であり、その住民は「小羊の妻である花嫁」と記されています。(黙示21章参照)イエス・キリストは「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2)と約束されました。
天国の祝福は言葉で言いあらわせるものではありません。私たちはみことばによって、それをうかがい知ることが許されています。消極的には、天国はすべての罪と不義とが永久に消し去られた場所です。(黙示21:27)また、積極的には、聖徒のすべての聖き願望が完全にこたえられる場所です。(黙示22:3〜5)さらに大切なことは、主イエス・キリストとの全き交わりです。「その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)
最後に天国の素晴らしさは、その喜びが、決して終わらないということです。そこは神の営み造りたもう基礎ある都であり(へブル11:10)、天にある永遠の家です。(2コリント5:1)