あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」(ヨハネ10:33新改訳)パリサイ派や律法学者たちがイエスを見た時、その姿はどこから見ても人間であった。だから神を冒瀆する者と決めつけたわけである。しかしひとり子の神は人間の罪を完全に負われたからこそ人となられたのであった。そこに輝いているのは謙遜の栄光であり、当時のユダヤ人たちが肉的に期待した神の栄光ではなかった。もし彼らが期待していたような天上の御姿そのままで現れたら、見た者は一瞬のうちに蒸発し、霊魂はゲヘナへ真っすぐ落ちていたであろう。主はそれほどの絶対的聖を持っておられる方である。▼主は人の罪をその身に完全にお受けになった。だから人間が期待し、予想したような神的栄光が一分一厘一毛もなく、そこには人の姿だけがあったのである。しかしキリストの御謙遜という事実に心の目が開かれたキリスト者は、今度は主イエスから謙遜という栄光がまばゆいばかり放射されていることにおどろき、ひれ伏す。つまりユダヤ人たちに見えなかったものが見えるようになる。そして自らの罪が完全に解決していることを見、賛美と喜びに満ちあふれ、御子のご謙遜が最大のたからものになるのである。