「召されている者として」エペソ1:4-5

「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」今年の教団標語ですが、この勧めの大前提は、神が私たちを召されたということから始まっています。神が、私たちに与えてくださっている立場、どのような者として召されているのかという事実を知ることから始まるのです。ウィリアム・クラーク博士は、札幌農学校に赴任した時、それまでの細かい校則を全部廃止して、“Be gentleman”という一語に纏めてしまったそうです。日本語で言うと「紳士たれ」ですね。紳士とは何か、これさえわかれば、もう細かいことは言わなくていいのです。私たちもどのような者として召されているかしっかり理解し、体験していけば、おのずとその召しにふさわしい歩みが生まれてくるのです。同じエペソ書の1章4~5節に私たちの召し、選びがどういうものなのかが記されています。

私たちは、いつから召されたのか。「世界の基の据えられる前から、この方にあって私たちを選び」(4節)です。私たちは、この全世界が創造される前から選ばれていた存在なのです。この世界は、人間が住むために最高の状態に創られています。気温、大気、水、言い出せばキリがないほどすべての条件がまさに神業でびしっと人のために条件がフィットして創られているのです。この世界を見る時に、私たちは偉大な神の存在に気付かされます。でも、それより前から私の選びがあるとなると、この世界全体が、私にとって最善の状態に整えられているということでもあるのです。それは何より召し、救いということにおいて、最善なのです。だからこそ、主イエスに出会い、信じることが出来たのです。主イエスとの出会い、救われたことは、決して偶然ではなく、神の永遠の計画の中にある必然の出来事だったのです。私たちは、神の永遠の計画の中で召されたのです。

私たちは、なんのために召されたのか。それは、「御前に聖なる、傷のない者にしよう」(5節)とするためです。レビ記19章2節で「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」とあります。聖なる傷のない者になるということは、神のご性質にあずかっていくということです。つまり、新約の恵みで見ると、キリストに似た者へと形造られるということなのでしょう。4章の2節以降は、召しにふさわしい者の歩みが書かれていますが、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」(4章2節)このことを実際に行ってくださったのはイエス様です。御前に聖なる、傷ない者になるというのは、まさに聖なる傷のないイエス様のお姿に似ていくということなのでしょう。私たちは、キリストと似た者と変えられるために召されたのです。

私たちを召した動機はなにか。「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」それは、愛です。私たちを一方的に愛してくださった。神様の愛は、ありえない愛です。私たちが神様のすばらしさを知り、愛するというのは、分かります。誰であれ、神様の魅力を知れば、この神様に虜になるのは必然だと確信するくらいまことの神は素晴らしいお方です。でも、実際には、先に愛したのは私たちじゃないんです。それこそ私たちの価値を見いだし、魅力を感じて愛してくださったのは、神様の方なのです。私たちが罪人であり、敵であり、不従順である時に一方的に愛してくださる愛ですし、自分の最愛のひとり子を十字架につけるほどに愛する愛です。こんな途方もない愛で愛されているからこそ、召されたのです。

私たちは神に召された一人ひとりです。召された者とされていることがどれほど祝福であり、恵みなのかをもう一度しっかりと覚えて、召しにふさわしい歩みを一歩一歩進めていきましょう。

成増教会 澤村信蔵



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