散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。使徒8:4

  仏教由来のことわざですが「初心忘するべからず」は、キリスト教においても重要なことでしょう。特に初代教会を振り返ることで、教会の在り方を改めて考えさせられます。
 初代教会も、とんとん拍子に宣教が進んでいったわけではありませんでした。ステパノの殉教が引き金になったのでしょうか、エルサレムの教会に激しい迫害が起こったのです。
 この迫害は深刻な危機でした。ステパノのように殺されることもあり得るわけで、クリスチャンたちは不安と恐れの中で、これからどうしようかと戸惑っていたのではないでしょうか。ステパノの死を悲しみつつも、こうしてはおれない。いつサウロの迫害の手が伸びてくるかもしれない。そういった状況であっただろうと思われます。
 しかし、そのような中で教会は勇気をもって迫害と戦ったわけではありませんでした。現実には、追い散らされただけでした。もちろん使徒たちは腹を決めて、いつでも殉教する覚悟ではいたでしょうが、他の多くのクリスチャン、そして入信したばかりの人々にとっては、ステパノの殉教も、サウロの迫害も、非常にショックな出来事だったのではないでしょうか。

 私たちは宣教の拡大ということだけを考えると、初代教会の人々は信仰の戦いを勇敢に戦って、その結果福音が広まっていったと考えてしまいがちですが、ここでは散らされるしかない弱い教会の現実の姿があるように思います。
 しかし、それは表に現れている状況であって、この激しい迫害の背後に、聖霊の神が確かに働かれておられたのです。それは何よりも、この迫害の先頭に立っていたサウロが、福音の最前線、先頭に立って進む者とされていくからです。私たちは迫害の厳しさの現実を見る以上に、聖霊の神の働きの現実を見ていきたいと思います。

 そして不思議なことに、この激しい迫害の結果、祭司長たちの予想とは裏腹に、福音がどんどん広まってしまうのです。「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」とありますように、ただ散らされただけではありませんでした。弱い教会の背後に聖霊の神は確かに働いて下さっていて、迫害の厳しさにもかかわらず、救いの喜びは失われていなかったのです。そこに流れていたいのちは失われておらず、恵みを伝えないではおれなかった…そういうことでしょう。キリスト・イエスにある恵みによって強められていたのです。伝えることで恵まれ、力を得、ますます広まっていったのではないでしょうか。
 迫害の手もどんどん広がっていったかもしれませんが、それ以上に力強く福音が広がっていったのです。祭司長たちは教会を迫害し、クリスチャンをエルサレムから散らして安堵したかもしれません。しかし、散っていったのは福音だったのです。神の恵みが四方に散らされ広がっていったのです。

 当時教会は生まれたばかりであり、まだまだ弱い存在でした。しかしその弱さの中で福音がエルサレムからサマリアへ、そして全世界へと広がっていったのです。
今日の教会の現実も、まさに弱さの中にあると言っていいでしょう。牧師不足、高齢化、経済的な厳しさ、青年層の教会離れ…。数えるならばキリがなく、10年20年後はどうなっているのか…。教会だけではなく、誰もが将来に不安を抱えている時代に私たちは置かれているのです。しかし、そこでこそ聖霊の神が働いて下さるのではないでしょうか。
教会は大きいこと、活発な働きがあること、それが素晴らしいのではなく、そこに集う一人びとりが、神の恵みに強められ、喜び感謝し生きるとき、神の恵みがその人の周囲に、次の世代へと広がっていくのです。
危機感を持つことは大切ですが、心配することはやめましょう。聖霊の神が働いていて下さっていることを信じて、神の恵みを証ししていきましょう。

米沢教会、山形教会 小野寺従道



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