神の召しにより与えられる望み

 平和を願う人間の努力とは裏腹に、争いと混乱が増々増大していく不安な時代です。この時代にクリスチャンとして生きる召しに与っている者の為に、パウロは、エペソ人への手紙の中で、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、知ることができますように」と祈っています。(エペソ1:18~19)その召しは四つの言葉で表現できます。

 学ぶ者への召し―「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」(5:1)。この言葉は田舎道を歩きながら、先生の後について学ぶ生徒を連想させます。教師の唇から語られる知恵の言葉を受け留めて学ぶのです。救い主は同じような方法を採用されました。初期のキリストに従う者たちは、自分たちに必要な知識はイエスにあると信じ、彼が言われることには何でも耳を傾け、希望をもって思い出せるように、イエスのそばにいることを願い、そこから学んだのでした。同じ真理がクリスチャンに言えることは明らかです。

 仕える者への召し―「うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い」(6:6)。「しもべ」と訳されている言葉は、「奴隷」を意味します。奴隷は自由民として解放されるよりも、自分の意志で主人に仕える為にとどまることを良しとした者です。解放の年が来ると、全てのしもべたちは自動的に自由にされますが、しもべがとどまる方が良いとするなら、彼は家の戸のところに立つことを求められ、そこで主人は彼の耳を刺し通し、彼がとどまることを求めた決断のしるしとしました。(出21:5~6)仕える間に、しもべは明らかに主人を尊敬し、愛するようになっていきます。クリスチャンは、神を愛し神が望まれることを、心をつくして行い、キリストのしもべとして、いつも熱心に喜んで仕えることによって成長していくのです。

 戦う者への召し―「終わりに言います。…悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」(6:10~11)旧約のロトが異教徒の王たちの捕虜になった時、アブラハムは318人のしもべたちを連れて甥ロトを救う為に戦いました。彼らは訓練されたしもべでした。(創世記14:14)パウロはもう一つの重大な戦い、暗闇の世界の支配者たち、もろもろの悪霊に対する戦いについて語り、神の完全な武具を身に付けるよう強く勧めました。(エペソ6:10~17)キリストに従う者は決して御国への安易な道を約束されたのではありませんでした。人生は戦いです。そして主は、信頼できるしもべたちを戦う者として召し、悪魔に対する戦いに勝利されるのです。

 語る者への召し―「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(6:20)。使節は他国の地において自国の代表者としてふさわしく行動します。パウロは自分の国籍が天にある事実を自覚して、態度、行為、話す言葉によって常にその事実を証明しました。彼は神の代理人として語る者でした。それゆえ神は彼を励まされました。「恐れないで、語り続けなさい。…この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(使徒18:9~10)。それゆえ「世の業を終えて 天つ憩いに 招かるる日近ければ なおも主の愛を 世人に語り 御栄えのために尽くさん」と願うのです。クリスチャンは「学ぶ者」「仕える者」「戦う者」「語る者」として召され、御国を受け継ぐ者とされています。この召しは、神の召しであるがゆえに「最も崇高な召し」です。神の働きであるがゆえに「最も聖なる召し」です。悪魔との戦いであるがゆえに「最も困難な召し」です。しかし神のみこころであるがゆえに「最も幸いな召し」であるのです。この召しによって与えられる望みにふさわしい歩みができますように。

総社教会 髙地博夫



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