「ぶどう園のたとえ」マタイ20:1-16
このたとえは、収穫時期のぶどう園で働く人々を雇うために行動するぶどう園の主人のあり方を、天の御国にたとえて主が語られたものです。聞いていたのは弟子たちでしたが、早朝から働いた者と五時頃から働いた者とが同じ一デナリの報酬が支払われたという話の内容に、きっと弟子たちには、釈然としない気持ちが残ったかもしれません。イエス様もたとえの中で、その気持ちを雇われた人のことばとして表現しておられます。「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」(20:13)一日一デナリの約束で働いたのですから、主人は何も不当なことはしていませんが、早朝から長く働いた人たちにとっては、五時からの人たちを妬ましく感じたことでしょう。弟子たちは、不満をもらした人たちに共感しながらも、複雑な思いを抱いたのではないかと推測します。
というのは、気前のいい主人の心は神のみ思いそのものであることが示されているからです。このたとえの結論として、「後の者が先になり、先の者が後になります」(20:16)という逆転が、御国の価値観のゆえに起こるものであることが語られています。このことばは、19章の最期にも記されていますが、19章では、多くの財産を持っていた青年が、主イエスに「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのか」を問いかけ、「財産を売り払って貧しい人たちに与え、その上で、わたしに従って来なさい」と言われた時、悲しみながら立ち去ったことが記されています。主が、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われたのを聞き、弟子たちは、驚きながらも思いを巡らしたことでしょう。
そして、ペテロは良い答えを期待して主に尋ねました。「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」イエス様は、将来与えられる特別な立場や恵みの大きさについて答えられましたが、しかし、先の者が後になり、後の者が先になることに注目させておられます。そして、まさに、多くの報酬を期待したペテロを代表とする弟子たちに、ぶどう園の主人のたとえを語られたのです。このメッセージは、彼の心に突き刺さったかも知れません。早朝から働いた人たちとは、自分のことだと受け止めて、その主のことばは、生涯彼に自戒を促したのではないかと想像します。
後に教会時代を迎え、迫害者だったパウロが教会に加わります。パウロは異邦人伝道のために大いに用いられ、活躍をしました。ある時ペテロは、パウロから律法と恵みついての態度の曖昧さを指摘され、注意を受けるということもありました。そんな時、ペテロは主のたとえを思い出したかもしれません。
教会において、様々な奉仕がありますが、その奉仕を担う人々の状況も奉仕の内容も様々です。もし、そこに何らかの優劣をつけて見たり、判断するようなことがあったなら、あるいは、人を見て態度を変えるような振る舞いをするなら、それは、天の御国に属する者たちの姿ではありません。たとえの主人は、5時からの人を雇いましたが、その人が仕事にありつくことができないで、辛い思いでいたその心の痛みを知り、寄り添って、その人にも同じだけ与えたいと思われたのです。
ある意味、救いに与った私たちは皆、5時からの恵みに与った者たちですが、いつしか、早朝からの者たちのように振る舞うようになるなら、それは主が悲しまれるのです。人の価値を効率主義や合理主義的な見方ではかるのではなく、御国の価値観で、すなわちキリストの心で互いを受入れ合い、愛し合う教会として、共に歩みたいと思います。
尼崎教会、カナン教会 瀬戸偉作