「神の愛を見つめて」Ⅰヨハネ3:1

 新改訳聖書2017が出版され十年近くが経とうとしていますが、第三版から大きな翻訳の変化があったのが、Ⅰヨハネ3:1です。
 第三版までは、この三章1節のみことばを理解する上で、最も大切だと思われる言葉が抜け落ちていました。その大切な言葉とは「考えなさい」という言葉です。新共同訳聖書が「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」と訳しているように、ほとんどの邦訳聖書が「考えなさい」という言葉を訳出しているのに対し、第三版には、この「考えなさい」という言葉がありませんでした。そしてギリシア語原文にはこの「考えなさい」と訳される言葉が、1節冒頭に命令形で記されています。
 では何を考えるのでしょうか。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか」を考えるのです。そして、父なる神が与えてくださった愛が何かと言えば、イエス・キリストの受肉と十字架です。この手紙を記した使徒ヨハネは、その福音書において「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と記しました。このヨハネ第一の手紙にも「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」(3:16)とあります。これらのみことばが語るように、父なる神が私たちに与えてくださったすばらしい愛、それがイエス・キリストの十字架です。
 このように「考えなさい」という言葉が大切なのですが、新改訳聖書や聖書協会共同訳聖書といった現代の邦訳聖書が「考えなさい」と訳しているのに対し、古い時代の文語訳聖書や元訳聖書では「視よ」と訳しています。
「視よ、父の我らに賜いし愛の如何に大いなるかを」。これが文語訳です。そしてギリシア語原文を直訳するならば、「見なさい」と訳すべき言葉です。しかも、そこで用いられる「見なさい」という言葉は、ちょっと見るというような見方ではなく、注意深くよく見るという意味の「見なさい」です。
 にもかかわらず、現代の邦訳聖書がそろって「考えなさい」と訳しているのは、考えるためにこそよく見るからです。また、イエス・キリストの十字架は、この目で見えるものではなく、私たちの頭の中で思い浮かべることであることから、考えなさいという翻訳が間違いであるわけではありません。それでも、ヨハネがここで私たちに求めていることは、見ることです。よく見ることです。神がどんなに大きな愛をもって私たちを愛してくださったか、イエス・キリストの十字架をよく見ることです。それは、私たちが十字架を見ることをやめてしまうからであり、大きな愛を私たちに注いでくださった神を見ることをやめてしまうからです。
 では、神を見ないで何を見てしまうのでしょうか。それが自分自身です。自分を見てしまうのです。誰でも自分を見ている限り、恥じ入り、逃げ出したくなってしまいます。信じなければならないのに、疑ってしまう。愛さなければならないのに憎んでしまう。そういう自分の姿を見ては、自分自身がいやになってしまう。そんな自分の姿を見ている限り、「私たちは神の子どもです」と言うことができないのです。
 ですからヨハネは、そんな自分に目を注ぐのではなく、「御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか」、そのことにこそ目を留め、しっかり見なさいと命じているのです。しばしば「人を見ないで神様を見なさい」という言葉を聞きます。その人とは、周りの人のことだけではありません。自分自身も含めて人を見るのではなく、神を見るべきなのです。その神がどんなにあなたを愛しておられるか、その事実を見なさい。そうしたら、この自分が神の子どもであるということがわかるのだと、ヨハネは言います。そして「御父が私たちを愛しておられるかを見なさい」と言われた時、私たちが見上げるのは十字架です。イエス様が私たちの罪のため血を流してくださった十字架です。そうやってイエス様は、私たちが神の子どもとなる道を開いてくださったのです。それが神を信じることなのです。

目黒教会 池本潔



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