「遣わしてくださる主のみ旨」Ⅱコリント12:9-10

 今年はコロナ禍の中にあって、教会任命の派遣式は教団総会に続いてでしたが、通例は春の全国大会の連合礼拝の中で行われます。出席したことのある方々には、北海道から九州まで教会名と牧師名が順に読み上げられる光景をご存知だと思います。席上から上がる「ハイ」という先生方の声を聞きながら、各教会へと派遣されて行く一連の光景を見る時、かつてアンテオケ教会からバルナバとサウロが遣わされた時と同じ主のみ旨が連綿と続いていることを、ふと思い起こすことがあります。使徒の働き十三4には「二人は聖霊によって送り出され」とあります。働き人たちは、聖霊に導かれて伝道旅行を進め、福音を語りました。彼らは、どこへ行っても、またいつも、遣わしてくださった主のみ旨を心に思い、自らが派遣されている身であることを意識していました。

 派遣礼拝で教会名と牧師名が読み上げられますが、実のところ、その教会の人々のためにその牧師が遣わされるということよりも、意味としては、教会が置かれた地域のまだ救われていない多くの人々の救いのために、その教会の兄弟姉妹とその牧師とが共に遣わされているのです。毎年、その意識を新たにして、遣わしていてくださる主のみ旨をしっかりと受け止め、遣わされている身であることを意識したいと思います。

 ところで、遣わされている身であることの意識について、多くのことを教えられる一つの証しがあります。およそ五年ほど前から尼崎教会に韓国から宣教師一家が遣わされて来ました。ご夫妻はメソジスト教団の牧師でしたが、日本宣教への召しを受け、祈りつつ主の召しに応えて来日されたのです。来られた当時は、小学生二人と幼稚園児の三人のお子さんたちも一緒でした。いきなり日本の普通学級に編入し、日本での生活が始まりました。全員日本に来てから日本語を学び始めたのですが、今は皆日本語を上手に話し、先生は日本語でメッセージをされます。これまでの苦労は並大抵ではなかったと思いますが、遣わしてくださっている主のみ旨をいつも胸に抱きつつ励んで来られました。その献身の姿勢は、振る舞いのすべてににじみ出ていて、接する私たちには、大きな励ましと共に霊的な目覚めを促します。

 日本宣教への召しは、ある集会で日本人牧師が語った日本の教会の現状を聞いたことがきっかけでした。無牧の教会があまりにも多い日本の現状のために、主が招いていてくださる御声を聞いたのでした。宣教師としての訓練のために、韓国のある宣教団体で学んでから来日されました。その宣教団体の責任者のご夫妻と私たち夫婦は、以前からの知り合いで、当時は、その方々は、OMFの宣教師として札幌で牧会をしておられました。長年の交わりを通して大変お世話になった方々でしたが、その後、韓国からの宣教師一家を紹介していただくことになるとは、夢にも思わないことでした。そのご夫妻と昔出会ったのは、今日のこの時のためだったかも知れないと、主のご計画の不思議さを思わされます。尼崎教会でのこれまでの歩みを通して、日本語と日本文化、日本の教会など学ぶべきことを学びつつ、この宣教師一家は、今後の働きに備えて励んでおられます。

 宣教の力は、私たちの内にある救いの喜びです。しかし、信仰の歩みの中では、弱さを知らされるという体験があります。もし、自己卑下をするなら、それは人間的な見方によるものですが、そうではなく、御霊の光の中で、すなわち御霊と共に歩む中で、与えられる視点があります。それは、主の御前に自分の弱さをありのまま認めて、聖霊の働きとその導きを求める姿勢です。聖霊と共に歩むことを大切にする人の心はより低くされ、そこにキリストの力が現わされて、さらなる宣教の力として用いられて行く、それが遣わしてくださる主のみ旨です。遣わされた地において、この主のみ旨に応答して、共に歩ませていただきたいと願っています。

理事長 瀬戸偉作



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