みことばの原点に立って

「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。』イエスは答えられた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。』」(マタイ4:3.4)
 主はヨルダン川で洗礼を受けたあと、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行きました。そこで四十日四十夜断食したあと、悪魔が全力をあげ、誘惑してきたとあります(マタイ四章)。
 主のおからだは衰弱しきっていたでしょう。その極限状態にあって悪魔のしれつな攻撃を受けたわけです。受肉された神の子を倒さなければ、彼の支配はくずれ去ります。したがって、このとき悪魔は彼の持つ知恵と力、策略(さくりゃく)のすべてを傾け、誘惑を考え出したにちがいありません。人としてこれ以上ない弱さに立たされた主と、地上で最大の力と知恵を持つ悪魔との対決、それが荒野でくり広げられた戦いでした。
 誘惑は三つの内容からなり立っていました。すなわち、第一は「あなたが神の子なら、これらの石をパンに変えてみなさい」、第二は「神殿の屋根から飛び降りてみなさい。あなたの足をみ使いがささえると聖書に書いてあるから」、第三は「もしひれ伏して私を拝むなら、全世界をあなたにあげよう」というものです。それに対し、主はすべての誘惑を拒否されたのですが、興味深いのは、主のおことばが全部、旧約聖書から引用されていることです。「・・・と書いてある」(→マタイ4:4、7、10)。これは、私たちキリスト者にとり、最大の敵である悪魔との戦い(それには永遠の救いがかかっています)に、武器として用いるものは「神のみことば=聖書」しかない、ということを示しています。
 もちろん主イエスご在世(ざいせい)当時、ユダヤ人指導者たちは聖書を知っており、聖書を用いていました。しかし彼らは神と聖書を信じて敬うとは言いましたが、実際は「先祖からの言い伝え」と称し、多くの肉的解釈を加え、みことばを自分たちの都合に合わせて変形し、空しくしていたのです。「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。」(マタイ15:6)、「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。」(マタイ15:3)
 私たちキリスト者にとり、真の強さとは何でしょうか?それは、聖書のおことばをそのまま信じ、よりすがることです。永遠の昔から天において定まっている聖書のことば、それにいっさい変更を加えず、「・・・と書いてある」と信じ、敵に向かって告白することです。神は幼子にもできるこのような信仰を私たちに武器として与えてくださいました。主イエスがとられた悪魔との対決方法は、以後二千年にわたる教会とキリスト者への模範(もはん)でもあります。なぜなら、主が手にしておられた聖書は、私たちが今持っている聖書とおなじだからです。つまり私たちは主とおなじ戦いをすることができるのです。
 今日の世界は文明の発達と称し、複雑化の一途をたどっています。便利なこと、早いこと、より高度で多くの情報を手にすることがもてはやされ、そのことに卓越(たくえつ)した人物が勝者として尊敬されます。その結果、果てしない競争と戦いが生まれ、ついていけない人々は落伍者(らくごしゃ)としてふるわれ、希望のない世界に追いやられます。しかし神の子は人間として地上を生きられたとき、もっとも低く、弱い立場に立たれました。にもかかわらず、強大な能力を持った暗やみの王が全力でおそいかかってきたとき、「聖書には・・・と書いてある」と、ただそれだけで立ち向かい、勝利されたことをおぼえましょう。くりかえしますが、人として弱さそのものになった神の子は「みことばだけをすべて」とし、人が「真に強いとはどのようなことか」を示してくださったのです。ですから私たちも、純真なみことば信仰をもう一度取りもどしたいと願ってやみません。

西播磨めぐみ教会 笠見 滋



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